傷だらけの起業戦士100人インタビュー第14回:株式会社エナジー 代表取締役 宮根 博信(みやね ひろのぶ)さん
起業した人の人生には「失敗」がつきものです。そこには、傷だらけになりながら自分の力で駆け上がっていく戦士たちの物語があります。このインタビューシリーズは、そんな起業戦士達にお話を伺い、その数々の経験談から得た学びを、これから起業したいと考えている人たちに共有し、背中を押してあげられるような企画になれば、そんな想いを込めてスタートしました。
第14回目の起業戦士インタビューに応じていただいたのは、株式会社エナジー 代表取締役 宮根 博信(みやね ひろのぶ)さんです。埼玉県川越市を拠点とし、大手給湯機メーカー、ならびに首都圏のガス会社や住宅設備関連企業を顧客として、住宅設備機器の設計・施工を請け負っているほか、一般住宅や店舗の新築・増改築の設計・施工も行っています。20代で勤め人を辞めて起業した宮根さんの軌跡について伺いました。
10代で両親が他界
家計を支えるために諦めた勉学の道
東京都文京区生まれの宮根さんは、団地ブーム全盛期だった6歳の時に埼玉県へ引っ越しました。出版ブローカーやプロレスの興行などを生業としていた父親は、1年のうちで家にいることはほとんどなく、また稼いだお金も家に入れず、宵越しの金は持たないというタイプの人でした。そのため家はたいへん貧乏で、宮根少年は幼い頃から母親の手伝いをしたり、自転車に乗れるようになると新聞配達をして家計を支えていました。しかしたまに父親が自宅へ帰ってくるといつも「お前は会社勤めはできない」と宮根さんに言っていたそうです。宮根さんは「会社を辞めて起業したことは、この刷り込みが影響していたかもしれません」と、当時を振り返ります。
幼いころから自立した生活に慣れていた宮根さんは、家計を支えるために働くことを「苦労」と思ったことはありませんでした。むしろそれは生きていくために必要な「当たり前」のこと。同時に、自分で稼いだお金は自分で自由に使ってもいい、という気持ちも強かったと言います。他の子供たちがお小遣いをやりくりしている中、宮根さんは強い独立志向を持ち、人に頼らず自分で生きていくという信念がありました。
そんな宮根さんに大きな転機が訪れたのは高校生の時でした。16歳の時に父が他界、18歳の時に母が他界したのです。6歳離れた妹と2人で生活していくことを考えると、予定していた大学への進学は諦めて働くしかない、と考えました。そこで母の知人のつてを頼って「国鉄(現JR)」の職員として社会に出ることになります。
慣れない会社組織で学んだこと
「安定」に対する違和感
国鉄では労働組合が力を持っており、宮根さんは若くして副議長を任されました。しかし、幼いころから培われてきた強い独立志向は、初めて所属した組織の中でうまく渡り歩くには不向きでした。そのため、当時誰もが求めていた「安定」に対して拭えない違和感も感じていました。その違和感は入社時に配布された職員手帳によって決定的なものとなります。そこには初任給、等級ごとの基本給や年金額が記載されていたのです。それは一般的に「安定」の証明でもありますが、宮根さんにとっては「生涯これからもらえる金額が、自分の努力如何に関わらず記載された金額から変わることはない」という絶望感でしかありませんでした。
それでも3年半、国鉄で働いた宮根さんでしたが、決められた「安定」に対する違和感は拭えませんでした。そこで、当時妻の実家が建設業だったこともあり、その業界で働き、ゆくゆくは独立しようと決意し、会社を去りました。
妻の実家が営む建設会社の紹介で設備工事会社へ転職し、そこで3年間の修行を積んだ後、24歳の時に自身で有限会社宮建設備として開業しました。軽トラック1台で臆することなく飛び込み営業に回ると意外にも、努力している若き実業家を応援してくれる人が多くいたと言います。そのため初めての事業にも関わらず順調な滑り出しでした。
最初から順調だったこともあり、取引先のリサーチなどはせず、基本的にはまず相手を信頼する、というスタイルで仕事をしていました。しかしこのことが後に大きな問題へと発展します。ある時、妻の実家が営む会社から大口の発注を受けました。親族からの依頼という事もあり、信用して快く引き受けたものの、受注案件の大元である発注者は実家ではありませんでした。そしてなんとその案件の売掛金が不渡りとなってしまったのです。総額3000万円に膨れ上がった金額は、28歳の宮根さんにはどうすることもできず、あえなく倒産し廃業となりました。当初は何が起こったのか理解できず頭が真っ白になるほど衝撃的な精神状態だったそうですが、なんとかトラックや重機など分けられるものだけでもと、当時の従業員たちに分配し、自身はローンを組み、地道に借金返済することを選びました。
「未回収分は必死に働いて取り戻すしか方法はありません。良きビジネスパートナーを選ぶ『眼力』を養うことの大切さを学びました」
再起をかけた激務の会社員生活
借金を完済しリベンジへ
それからは借金返済のため、京都に本社を持つ筆記具のOEMメーカーの社長秘書として再び会社員生活を始めました。年商500億円の経営手法をじかに学べたこともあり、この時の経験は後の財産ともなったと言います。
しかし、この社長秘書の業務は想像を絶する忙しさでした。朝から晩まで24時間体制でいつ呼び出されても、どんな場所へでもすぐに駆けつけなければならなかったためです。また、秘書の業務範囲を超えて、運転手、ボディガード、政治家とのお付き合いなどありとあらゆる依頼に応えなくてはなりませんでした。さらに、当時の総務部長が体調不良となったことをきっかけに総務部長としての仕事も任され、社長秘書 兼 総務部長という二重業務で多忙を極めました。しかしそんな中でも宮根さんは3年連続で優秀社員賞を受賞し、毎年特別賞与を受け取っていました。そのため、当然のことながら他の社員から「生意気な!」と嫉妬を買うことも少なくありません。人間関係に悩まされた宮根さんは次第に体調にも変化が現れ、心療内科を受診すると「不安神経症」との診断が下りました。治療するためには「会社を辞めるしかない」と言われたそうです。
それでもなんとか4年間勤め、負債の返済に見通しが立ったこともあり、宮根さんは再起をかけて会社員生活にピリオドを打ちます。
失敗してもエナジーで前進する
つまづきを自己鍛錬の肥やしに変えて
自身で天職と信じた建設・設備業に戻るため、1990年に二度目の開業をしました。その時に保証人になってくれたのは他でもない、その筆記具のOEMメーカーの社長でした。その後も様々な苦難を乗り越えて事業を展開し、株式会社エナジーを設立、現在ではリホーム部を子会社化してグループ全体で業務を展開しています。
設立から現在に至るまで、リーマンショックや東日本大震災など事業を揺るがすような大きな出来事がいくつもありました。しかしそうした大きな出来事があっても、なんとか乗り越えてこられたと言います。
「20代の時に絶望するような倒産を経験したことで、どんなことが起こっても冷静に戦略を考えられるようになりました。異業種に手を出さず、自分たちの得意なことだけで勝負してきたことも大きかったと思います。丁寧な仕事をして、納期を守り適正価格を提示する、これに尽きます。また、リピーターを増やすためにはショートカットせず遠回りをすることも大切です。遠回りしてきちんとした仕事をすれば、価格で選ばれることは無く『ここに任せないと安心できない』という理由で選んでもらえますから」
最後に起業を目指す方へのメッセージを頂きました。
「私がそうであったように『失敗』は自己鍛錬の肥やしです。一度や二度の失敗で絶望していては負のエナジーしか産みません。社名の『ENERGY』には単に「エネルギー」だけでなく「前進する」という意味を込めて社名を決めました。起業が容易になった昨今ですが、失敗から再起をかける際に力強く前進するには、導いてくれるビジネスパートナーが必要になります。自分だけでやるのではなく、任せられるプロのパートナーを選び抜く眼力を鍛錬して下さい」
今後は自身の会社から巣立って独立していく後進たちを見守ることも楽しみの一つだという宮根さん。これからの世の中で生き抜くには、会社に頼りすぎず、個人が力をつけていくことが重要です。自身の力で独立や起業をできる人材が育つ環境や考え方を醸成することもこれからの社会で選ばれる企業に求められる資質かもしれません。
宮根さんが展開される事業に興味を持たれた方や相談がある方は、是非ホームページもチェックしてみて下さい。
株式会社エナジー
https://energy17.com/
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