傷だらけの起業戦士100人インタビュー第15回:マゴズハンド株式会社  代表取締役社長 宮内 秀緒(みやうち ひでお)さん

起業した人の人生には「失敗」がつきものです。そこには、傷だらけになりながら自分の力で駆け上がっていく戦士たちの物語があります。このインタビューシリーズは、そんな起業戦士達にお話を伺い、その数々の経験談から得た学びを、これから起業したいと考えている人たちに共有し、背中を押してあげられるような企画になれば、そんな想いを込めてスタートしました。

マゴズハンド株式会社  代表取締役社長 宮内 秀緒(みやうち ひでお)さん

第15回目の起業戦士インタビューに応じていただいたのは、マゴズハンド株式会社  代表取締役社長 宮内 秀緒(みやうち ひでお)さんです。埼玉県さいたま市を拠点とし、新品・中古オフィス家具販売・買取及びリサイクルや移転作業から内装工事と幅広く事業を展開されています。事業の傍ら南浦和でライブハウスも営む異色の複合事業を手掛ける宮内さんは、なぜ会社員から独立して自身の会社、そしてライブハウスを経営するに至ったのでしょうか。

自立心を育んだターニングポイントを経て
たどり着いた「白紙」の将来設計

三人兄弟の真ん中の次男坊だった宮内さんは、やんちゃな長男と三男にかこまれながら、あまり人とも話さないタイプの、大人しく存在感の薄い子供だったそうです。一方で父親はと言えばギャンブルと女に溺れるという典型的な破滅型でした。そんな宮内少年が小学三年生の時に忘れもしない出来事が起こりました。ある日いつものように学校から自宅へ帰ってみると、そこにはなんと見知らぬ家族が住んでいたのです。父親のギャンブルで借金がかさみ、家の借地権を抵当として差し押さえられてしまったことが原因でした。帰る家を失った宮内兄弟でしたが、たくましくも父親は新たに別の女性の家で暮らし始めたことで、一家ともどもそこで暮らすことになりました。

そんな人生観が変わる出来事があった宮内少年に変化をもたらすもう一つの出来事が同じころに起こりました。ある日、小学校でソフトボールをプレイする機会がありました。先生に言われた通りにやってみると、皆ができないようなことでも、なぜかいとも簡単に出来てしまったと言います。それまで自分でも知ることがなかった天性の運動神経に気づいたことをきっかけに、宮内さんは人見知りで大人しい性格から、スポーツ万能の活発な少年へと変貌を遂げました。すっかり活発になった宮内さんは音楽にも目覚め始めます。小学校6年生の頃にテレビで見た吉田拓郎さんを原体験として、中学時代には兄の影響でベンチャーズに衝撃を受けてギターを始めるなど、その後の人生でも音楽は常に宮内さんの傍らにあり続けることになりました。

さて、スポーツ少年として花開いた宮内さんは中学に上がると野球部へ入ります。その当時全生徒の1/3以上が入部する程、人気のあった部活でしたが宮内さんは持ち前の運動神経の良さでチームをたばねるキャプテンの座を勝ち取りました。しかし、運動では自信のあった宮内さんでしたが、チームメンバーをまとめることには苦労したと言います。宮内さんは「実は後悔が残っていました。メンバーは豊富にいたし、良い選手もいたので、チーム自体は他の学校からも一目置かれていたんです。僕はチームをうまくマネジメントできなかったのですが、もっときちんと出来ていれば上を目指せたんじゃないかな」と当時を振り返ります。宮内さんは「実は野球選手になれると本気で思っていました」と少し照れながら話してくれました。しかし中学3年にもなると体格的な面や、家の環境や経済面から、野球を続けることを諦めて近くの公立高校へ進学することにします。

かつてはヤンチャだったという兄と弟と共に南浦和で営むライブハウス「宮内家」にて

高校時代は家計を助けるために喫茶店でアルバイトをしていました。平日は実に7時間(4-11時)、週末は15時間も働きましたがそれを苦にしたことはありません。学費の補助に充てることはもちろん、好きなギターを買ったりと自分が働いて手に入れたお金を自分の意志で使えることが嬉しかったのです。この頃すでに「自分の人生は自分でなんとかする」という考えが当たり前になっていたこともあり、進路指導の先生からのアドバイスに頼ることもありませんでした。「進学」「就職」など他の生徒の進路が次々と決まっていく中、宮内さんの進路だけが最後まで「白紙」のまま卒業を迎えることになりました。

とにかく1年間、100%の力を注がなければ
誰も耳を貸してはくれない

高校を卒業した後は特にやりたいこともなく、ガソリンスタンドや喫茶店などしばらく職を転々としていました。10代で自立的な生活を送っていた宮内さんは当時どこか生意気だったと言います。しかし毎日いろんな人の人生の一面が垣間見える職場を通して様々な人と出会い、言葉を交わすうちに、短期間で職場をコロコロ変えていては、自分の考えや意見に耳を貸してもらうことはできない、ということに気づきはじめたと言います。当時、将来に何も見いだせずモヤモヤとした気持ちを抱えながらもただただ働いていた宮内さんでしたが、ある時、勤めていた喫茶店のお客さんがこんな話をしてくれました。「宮内くん、人生の壁の高さは人によって変わるらしいよ。壁はその人が乗り越えられるだけの高さになっているんだって。宮内くんの壁も他の人と比べると今は高く見えるかもしれないけど、きっと乗り越えられる高さのはずだよ」この言葉を聞いて、特にやりたいことも何もなく職を転々としていた宮内さんは一度しっかり腰を据えてひとつのところで働いてみよう、と決心しました。

その後「とにかく1年、100%の気持ちをしっかり入れて働く」ということを心に決めた宮内さんが29歳の時に、転職した施工会社で転機が訪れます。入社1年後に会社のM&Aによってオフィス家具・文具の大手会社の子会社となり、宮内さんは営業所の所長を任されたのです。マネジメント経験こそなかったものの、中学時代に野球部のキャプテンとしてチームをうまく導けなかったことの反省から「人が変わったと思われたとしても、リーダーらしく責任感をもってチームを力強く引っ張っていく」と心に決め実践していました。リーダーシップを遺憾なく発揮し、営業所のメンバーをまとめていた宮内さんはその後、さらに会社が別の物流系企業の子会社と合併したことをきっかけに、全国の物流拠点を統括する本部課長に抜擢されました。

営業所長も務めながら、今度は全国の物流・施工業者をマネジメントするための組織を起ち上げるリーダーも務めることとなった宮内さんですが、さまざまな地域から寄せ集められたチームメンバーは一癖も二癖もあるメンバーばかりだったと言います。メンバーからするとどこの馬の骨とも分からない子会社の所長だった人物が急に新規の組織でリーダーになるということもあり、当然のことながら当初はまとまりもなく、歓迎ムードなどあるはずもありませんでした。そこでチームのために研修プログラムを作り上げて実施し、メンバー1人1人と丁寧に話し合ってどのようにすればチームがまとまるのか模索していきました。宮内さんは「1人1人ときちんと話すことが大切です。本人のモチベーションと不満を聞き出して、全ての要望を叶えるのは無理ですからそれも正直に伝えながら、それでも一緒に今より良くしていこう!という共通目標を持ってやっていました」と教えてくれました。現場主義の宮内さんはチームのメンバー育成だけではなく全国に飛び回り、関係業者さんに直接会って生の声を聞き、現場で起こるひとつひとつのコミュニケーションを大切にしていったと言います。結果として地道な行脚が少しずつ実を結び、確固たる信頼関係も次第に築いていきました。

震災からの復興、バブル崩壊を経て
見つめ直した自身の将来設計

それなりに評価される成果も上げることができ、事業も軌道に乗っていた1995年、阪神淡路大震災が起こりました。関西圏にあった営業所は壊滅状態。実務が出来る状況ではありませんでした。そこで本部から5~6人駆り出してインフラ整備もままならない現地で立て直しを図ることになりました。その時、前述のチーム立ち上げを指揮して評価されていた宮内さんに神戸対策室長としての任務が下りました。もともと関西の基盤が弱い会社だったこともあり、指揮系統も存在しないカオスな状態からのスタートでした。瓦礫や泥だらけになってしまった施設を整えて家具設備を整備するなど、4カ月弱の間ひたすら復興のためにメンバーと従事しました。神戸での事業展開に目途が立って本業に戻った宮内さんでしたが、その後いくつかのチーム立ち上げや立て直しを経験しました。そんな中、当時世の中はバブル崩壊の余波が残っており、数多くの企業が倒産したり事業を縮小したことで、使える家具が廃棄されていたことに目を付けた宮内さんは、社内ベンチャーで2002年にオフィス家具のリユース・リサイクル事業を立上げることになりました。

リユース部門にて定期開催していたオフィス家具のオークション

かつて自身の足で関係性を構築してきた全国の業者さんへの地道な行脚や、未曽有の震災での営業所復興の経験を活かしながら起ち上げたリユース・リサイクル事業は、2002年10月21日号の日経ビジネス誌で取り上げられるほど、当時のトレンドを捉えた新しいビジネスモデルでした。今でこそSDGsなど再生/持続可能である事業モデルが当たり前となっていますが、当時の市場では「新品を売る」ことこそがメーカーの大命題であったことに対し、宮内さんが考案したのは商品の開発・販売にとどまらず、不要となったオフィス家具の二次利用(リユース)から再利用までを網羅したエコシステムでした。当時のマーケット状況の読みも当たり、リユース部門は宮内さんが当初考えていた通りバブル崩壊後の企業にとってもユーザーにとっても利のある事業モデルとして受け入れられました。

リユース部門がうまく軌道に乗ったこともあり2005年には、自身で長年思い描いていたことでもあるライブハウスをオープンすることにしました。

とは言えライブハウスの事業は利益を追求したわけではなく、当初は自宅の二階で週末に自身と仲間たちが音楽を楽しめるようにと始めたのがきっかけでした。ライブハウスと言えばカタカナや英語など横文字が多い印象ですが、宮内さんが作ったライブハウスはその名も「宮内家」。自宅の一室で仲間たちとワイワイやることの延長をコンセプトとして始めたのでした。そんな宮内家は2008年ごろから次第に人づてに「さいたまに面白いライブハウスがある」と噂となり人が人を呼ぶ形で、プロのミュージシャンも足を運ぶようになりました。しかし軌道に乗り始めると、閑静な住宅街のど真ん中に店を構えていたこともあり、近所への影響も考えて店を閉めざるを得なくなりました。2010年にやむなくライブハウスを閉めた宮内さんでしたが、困ったことが起こりました。というのも、もともとリユースの事業で独立しながら、ライブハウスのカフェ事業と2軸でやっていくと心に決めて、2011年には辞めることを3年前の2008年から会社には伝えていたのでした。

独立を目指した会社退職前に
主軸事業のライブハウスがまさかの閉店

結果として当初思い描いていた事業2本柱の一つであったカフェ部門がなくなるという事態となりました。しかし宮内さんはオフィス家具のリユース事業を軌道に乗せるべく全国へ出向き、中小企業の社長を中心に営業活動を始めていました。とにかく相手の懐に入り、相手の役に立てるようにとアクションしてきた地道な関係づくりが功を奏して少しずつサポートしてくれる人たちが増えていきました。中には「起ち上げ当初はお金が必要だろうから」と、ほぼ即金のような形で入金してくれる人までいたと言います。

宮内さんは当時を振り返り「本当に人生はどうなるか分からないと改めて気づかされました。リユースの仕事で全国にパートナーができたことで、独立の決意が確固たるものになりました」と語ります。

その甲斐もあって会社に独立を宣言していた2011年に無事、マゴズハンド株式会社を設立し、リユース部門で大規模な全国規模のビジネスチャンスを勝ち取りました。その翌年には、その利益を以て一度は閉店したライブハウスを別の場所で再開するまでになりました。現在はライブハウスを地下の物件へと移し、週末を中心に上質なライブ音楽を届けています。

ライブハウスのカフェ部門とオフィス家具のリユース部門は「農耕」と「狩猟」のようなものだと宮内さんは言います。音楽というもので自分の家族が食いっぱぐれない最低限の収入を得ている一方、リユース部門では勝ち負けが大きく影響するものの、狩ることができればその成果は大きなものになるためです。そして両方に共通するのは「飽きないこと」「三方にとって良いこと」だそうです。ライブは毎日アーティストもお客さまも異なり飽きない上に、アーティストも来場者もライブハウススタッフも嬉しい体験を得られます。オフィス家具のリユースも同じ商品を扱うことはありません。ユーザーにとっても廃棄や再販の手間が無く、買い手にとってはお手頃価格で必要な商品を入手でき、リユース業者も双方の仲介をすることで利益が得られます。

プロのミュージシャンも来るようになったライブハウス「宮内家」にて
宮内氏(左)と竹原ピストル氏(右)

「やりたいことを叶えたい」vs「事業を成長させたい」
ブレないように起業前に一度自問を

60歳を超えた宮内さんは今ではどのように余生を過ごすかについて将来設計を立て始めていると言います。リユース部門は現場は極力後進に任せるようにしている一方で、ライブハウスは最後まで自分で続けたいそうです。今では地方の優良物件を検索したり「試し住み」をしながら「ゆくゆくは南浦和と別荘で半々くらいの生活にできるのが理想」とのことです。

最後に宮内さんに起業を目指す人へのアドバイスを聞いてみました。

「顧客に信頼されるコツはずるく生きない、そして、素直であることです。会社や利益ファーストで考えてはいけません。相手の利益、ひいては社会の得になるような事業モデルでなければ人はついてきませんから。また、起業する際にはぜひ『自分のやりたいことで食べていきたい』のか『とにかく事業を大きく成長させていきたいのか』を問うてみてください。この2つの方向性が決まっていなかったりブレていたりすると経営判断でつまづきます。ぼくの場合は完全に前者で、自分を信じて道の無かったところに 『けもの道』を作ってきたと思っています。でもけもの道みたいなところのインフラを整えて誰でもが快適に往来できるようにするには大きな利益を得てそれを投入できる大企業でなければ難しいですよね」

どちらが良い、悪いではなく、自身の起業の目的をハッキリさせること。これは単純なようで意外と難しい問いです。状況や自分の状態によっても移ろうこともあるかもしれません。起業を検討されている方は一度自問してみて下さい。

いかがでしたでしょうか。今回ご紹介した宮内さんが展開される事業に興味を持たれた方や相談がある方は、是非ホームページもチェックしてみて下さい。

マゴズハンド株式会社
http://www.magoshand.co.jp/

いつでも大好きな音楽と共に生きている宮内さん。自身のバンド「せくしぃず」ではギターを担当

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