傷だらけの起業戦士100人インタビュー第19回:株式会社ツバメデザイン 溝口 真一(みぞぐち しんいち)さん

起業した人の人生には「失敗」がつきものです。そこには、傷だらけになりながら自分の力で駆け上がっていく戦士たちの物語があります。このインタビューシリーズは、そんな起業戦士達にお話を伺い、その数々の経験談から得た学びを、これから起業したいと考えている人たちに共有し、背中を押してあげられるような企画になれば、そんな想いを込めてスタートしました。

株式会社ツバメデザイン  溝口 真一(みぞぐち しんいち)さん


第18回目の起業戦士インタビューに応じていただいたのは、株式会社ツバメデザインの溝口 真一(みぞぐち しんいち)さんです。学生時代に美術の道に目覚め、ドイツの大学で学んだ溝口さんは、帰国後に紆余曲折を経てデザイン会社を設立しました。若い頃に情熱を燃やした芸術や、起業に至るまでのストーリーについて詳しく伺いました。


生真面目な幼少期からの転身
自由な自転車旅で日本を巡る日々

自身の幼少期について、溝口さんが最初に口にしたのは「生真面目」という言葉です。例えば理科の授業でザリガニの解剖があるというと、一人だけ夜遅くまでザリガニを捕えるために必死で探し回ったり、授業でわからないところがあると必ず授業後に先生に聞きに行き、熱心にメモを取ったりといった具合でした。授業は人一倍まじめに受けていた溝口さんですが、数字の計算などには苦手意識が拭えなかったと言います。算数の授業で「りんご12個を3等分ずつすると何切れになるか」といった問題では、どんな形のナイフでどんな子がどんな風に切るのか、というイメージが先に頭に浮かんでしまうのです。

授業にはきちんと出席し、先生にも積極的に質問したり、前向きに取り組んできた溝口さんでしたが、真面目にやるほど「あいつは変なやつだ」と周囲からからかわれてしまう事に気づきました。次第に「生真面目に頑張ることは、果たして自分にとって良いことなのか?」と疑問を持つようになります。

そして、それまで貫いてきた「生真面目な自分」を変えていく事にしました。初めて音楽に出会い、友達とバンドを組んだり、バンドの為にバイトを始めたりと、勉学以外の方向へ情熱を燃やしたのです。当然成績は落ちる一方でしたが、学校の授業には魅力を感じませんでした。

そんな溝口さんも高校生になり、知らない世界にどんどん興味が湧き始めると、地図を見て知らない土地に思いをめぐらせられる、自転車での一人旅に夢中になりました。夏休み等を利用して、当時住んでいた三重県から東は東京へ西は九州へと自転車で旅したのです。学校のテスト用紙の裏面には自分が旅した土地で起こった出来事や感想のレポートを綴りました。

旅に綿密な計画は無く、地図も携えない行き当たりばったりの冒険でした。学生のため貧乏旅でしたが、困った時はいつでも誰かの優しさに助けられていたと溝口さんは振り返ります。

自転車旅行に夢中だった学生時代の溝口さん

 

芸術家としての目覚め
自分が輝ける場所を求めて

しかし学年が上がると進路を決めなければなりません。勉強をせず自転車旅に明け暮れていた溝口さんの成績は振るいませんでしたが、実技で評価される美術だけは得意科目でした。そこで学校に来ていた美術研修生の先生に相談したところ、美術だけを学べる大学があることを知ります。

「自分にはそれしかない!」と感じた溝口さんはすぐに美術大学を受験するための予備校に通い始め美術大学を目指しました。残念ながら現役ではあと一歩及ばす、翌年には上京し再度美術大学を目指します。そこで芸術家の卵たちとすぐに意気投合し、刺激的な日々を送ることになります。当時の路上パフォーマンス集団「東京ガガガ」に影響を受け友達と街を練り歩いたり、ギャラリー巡りをして在廊している作家と議論をしたり、アトリエと称して畑を借り、解体のバイト先で出た廃材で巨大なアート作品を作ったりと充実していました。そうして多くの刺激を受けるうち、単なる受験のための美術試験や、日本の美術大学をつまらなく感じ始めました。

溝口さんはそんなある日、制作作品が認めてもらえれば人種問わず入学でき、無料で学べる芸術大学がドイツのデュッセルドルフにあることを知ります。入学基準は作品以外に無いという点がとても魅力的でした。世界中から数千人が入学を希望し、そのうち入学できるのはわずか数十名という狭き門でしたが、本物の芸術を学べるのではという期待が膨らみ、ドイツ行きを決意しました。

「日本には帰らない」とドイツ行きのチケットは片道切符でした。土木関係のアルバイトで貯めた貯金をはたき、高校時代の自転車旅と同じようなスタイルで「行けばなんとかなるだろう」と手には作品集とリュックサック1つ携えて旅立ったのです。

 

ドイツでの路上生活から大学へ
朝から晩まで芸術漬けの8年間

しかし、日本での自転車旅のようにはうまくいきませんでした。

街中をくまなく探しても芸術大学は見つからないのです。人に聞くことも出来ず、毎日高架下で野宿したり、駅舎で雨風をしのぎながらさまよいました。そして次第にお金も底をつき、食べ物もなく、異国の地で一人さまよう浮浪者になってしまったのです。

そんな生活が数ヶ月続いたある日、一人の老紳士が話しかけてきました。まったく見知らぬ老紳士でしたが、溝口さんの手を引くと町のユースホステルまで連れていき、「いいからお前はここに泊まれ」と1ヶ月分の宿泊費を支払ってくれました。

その後、相部屋で過ごす異国の学生や旅行者、出稼ぎ労働者の同居人たちから、少しずつ食べ物を分けてもらいながら体力を回復させるうち、「困ったことがあったらここに電話するように」と妹からもらっていた電話番号の存在を思い出しました。現地に住む日本人の知人の電話番号でした。

そこから先は人から人へとつながり、デュッセルドルフ芸術大学の生徒たちとも知り合いになりました。町には多くのギャラリーがあり、毎晩どこかしらで展覧会のパーティなどが開かれていたこともあり、溝口さんは足繁くギャラリー通いをし、他の芸術家たちとも交流を深めました。そうするうちに「ギャラリーに出没する変な日本人がいる」と話題になり、溝口さんの師となるギュンター・ウッカー教授のクラスに聴講生として参加できるまでになったのです。



ドイツ留学時代の溝口さん

 

ここからの溝口さんは火が点いたように意欲的に様々なインスタレーション作品づくりに取り組み、師や仲間たちと朝から晩まで深い議論を交わしました。夜は学生たちの集まるバーに入り浸って話すうち言語の壁も無くなっていきました。その後もほかの教授の下でも学びながらドイツでの芸術活動は実りあるものとなりました。とりわけその頃に教授や仲間たちと芸術を通して様々な考察をし合えたことは、溝口さんにとって大きな財産となりました。



デュッセルドルフ芸術大学在学時に制作した溝口さんの作品アイデアスケッチ

 

しかしドイツ生活も8年目となった頃、芸術家として溝口さんにもギャラリーが付き始めたことをきっかけに、日本へ帰国する決意をしました。このことについて溝口さんは「ギャラリーが付くことは一人前の芸術家になったということでもあります。ただ、そのことで勘違いをして凋落していく芸術家もたくさんいました。自分で自分を調子に乗らせないために、一度ドイツを離れて日本で勝負することにしたんです」と当時の心境を語ってくれました。

日本で新しいスタートを目指し
正社員〜校長〜起業家へ

帰国してからも溝口さんは、2002年に『The Vision of Contemporary Art 2002』にて奨励賞を受賞するなど、芸術家としても意欲的に活動していました。創作活動の傍ら、建築学校ワークショップなどで手伝いをするなどしていましたが、自身に子供が生まれたことをきっかけに、安定した収入を得られる定職に就くことにしました。

それまでの創作活動からはいったん離れ、広告代理店で営業職として働き始めた溝口さんは、クリエイティブへの深い造詣と土木関係のアルバイトなどで培った現場経験を武器に頭角を現しました。

未経験から社内で社長賞に選ばれたこともあり、サラリーマンとして日々働く事に邁進していました。しかし、心身共に頑張りすぎた事と、先輩社員からは疎まれ、嫌がらせのような仕打ちを受けたことにより精神的ダメージが蓄積し、ある日突然声が出せなくなりました。診察の結果は適応障害でした。

そして1年の休職。職場にはもう戻れませんでした。

そんな時、後に会社創設メンバーとなる、当時知り合いだった宮本さんから、デザインスクールの校長をやってみないかと誘われます。聞いてみるとスクールの経営は傾いており、IT企業に買収されたものの、近々閉校する可能性が高い、というワケありスクールでした。それでも溝口さんは引き受けました。その理由について溝口さんは「学校という場に興味があった事、自分がドイツで学んだ事がいかせるかもしれないという希望、それに、もし立て直すことが出来たらこんな素敵なことはない。適応障害を乗り越えるためにも前向きな選択をしたんです。もし閉校となってもそのプロセスを体験できることは貴重なことです」と教えてくれました。

なんとか最後に少しでも立て直しをと考えた溝口さんは、学生への入学誘致とデザイン案件の受注に奔走しましたデザイン学校で学び、デザイン事務所で仕事をする、そんなエコシステムを目指したのです。しかしそんな溝口さんをよそに、売上重視の親会社側は短期的な成果が出ないビジネスに終止符を打つことを早々に決めてしまいました。

その後も親会社からの要求や考え方と折り合いを付けることができなかった溝口さんですが、その苦悩を知った宮本さんから「いっそのこと2人で新たに会社を立ち上げてはどうか」と提案を受けました。妻にも相談をしたところ、この新しい出発を了承してくれました。そうして誕生したのが「株式会社ツバメデザイン」です。



会社起ち上げ時のツバメデザイン事務所にて

いまでは2Dグラフィックデザインだけでなくウェブデザインやドローンによる撮影、動画制作まで幅広くこなすツバメデザイン。しかし起ち上げてからすぐに全てうまく行ったわけではないと言います。

「起ち上げ当初は仕事もあまりなく大変でした。それでもスタート時に設立パートナーがいてくれたことは大きいです」と溝口さんは語ります。

自分ひとりだけでなく、仲間がいるからこそ、その人の暮らしをきちんと維持できるようにしなければ、という思いが何倍にも強くなるのです。2020年に世間を揺るがせたパンデミックの時も、助成金を利用しながらなんとか乗り越えました。

最後にこれから起業する方へのアドバイスと今後の展望を伺いました。

「起業すると自由が手に入ります。仕事さえきちんとしていれば昼間に銭湯にだって行っていいし、仕事がない時はオフィスで寝ていても問題ない。ただ、起業したら是非人を雇うという経験をしてみてください。1人でも人を雇うことで見えてくることが必ずあります。私としては売上を闇雲に追いかけるより、設立パートナーである宮本さんと自分の生活が維持できることが一番ですね。そしてゆくゆくはツバメデザインをハブとしたフリーランスのネットワークができると良いなと思っています。インボイス制度で仕事が減ってしまうことが無いように、ツバメデザインのアカウントを通してお仕事をしてもらうなど助け合えることもあると思っています。そうすることで協業の輪も広がってより大きな仕事につながるかもしれません」

自分だけでなく、自身のネットワークにいる人々も良い方向へ迎えるように、自転車旅やドイツでの路上生活を経た溝口さんならではの助け合い精神を、このインタビューを通じて皆さんにも感じて頂けたのではないでしょうか。

株式会社ツバメデザインに興味がある方、デザインのお仕事の依頼がある方、溝口さん主催の写真ワークショップにご興味のある方は是非以下のウェブサイトからご連絡ください。

株式会社ツバメデザイン
溝口真一ワークショップ

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