傷だらけの起業戦士100人インタビュー第16回:株式会社エフ・イー・エス 代表取締役社長 山本 宗明(やまもとむねあき)さん

起業した人の人生には「失敗」がつきものです。そこには、傷だらけになりながら自分の力で駆け上がっていく戦士たちの物語があります。このインタビューシリーズは、そんな起業戦士達にお話を伺い、その数々の経験談から得た学びを、これから起業したいと考えている人たちに共有し、背中を押してあげられるような企画になれば、そんな想いを込めてスタートしました。

FES株式会社  代表取締役社長 山本宗明(やまもとむねあき)さん

第16回目の起業戦士インタビューに応じていただいたのは、FES株式会社  代表取締役社長 山本宗明(やまもとむねあき)さんです。「今までに無い新たな仕組みを生み出す」をモットーにする同社は、高いエンジニア力を武器に企業向けの業務用をはじめとしたシステム開発を行っています。市場にあまたの競合がひしめく中、開発力と対応力で時代のニーズに応えるFES株式会社はいったいどのようにして誕生したのでしょうか。学習塾として誕生した同社が、現在の業態へと至った軌跡に迫りました。

得意な数学の道から”社会問題の解決”を目指して

山本さんはもともと親が転勤族だったこともあり、友達と遊ぶよりも野山で蛇や昆虫を捕まえたり、川遊びをしたりと自然の中で駆け回るなど、一人遊びが多い少年時代でした。体を使うことも好きな子どもでしたが、学校の科目の中でも特に理数系が得意だったことから、大阪府の進学高校へと進みます。

進学した豊中高校は関西の国立大学への合格者を数多く出しており、その授業内容は質も量も他の学校とは一線を画していました。現在でもスーパーサイエンスハイスクール(SSH)として知られている同校ですが、当時の授業も高校生に対する内容とは思えないものだったといいます。例えば、地学の授業では大学の教授が授業を担当し、学会用の英語の論文を翻訳輪読させたり、高校2年の時の英語では大阪大学教養学部で使われていたサマセットモームのサミングアップや、ジョージオーウェルのアニマルファームの原書を教材にしたり、はたまたシェイクスピアの英語劇を課外授業で取り入れるなどハイレベルなものでした。

もともと得意だった理数系の学力がさらに磨かれた高校時代でしたが、将来の進路を決めるにあたっては「はたしてこのまま数学の研究者や学校の先生になる、という道にそのまま進んでいいのだろうか」と疑念が頭をもたげていました。

学生時代を通じて「教師」という存在にそこまで尊敬の念を抱けなかった(というより毛嫌いしていた…)という山本さんですが、実は影響を受けた教師が一人だけいました。それは中学時代に担任となった先生でした。厳しくも破天荒な先生で、時には専横的な他の教師と生徒の間に立って一緒に戦ってくれました。山本さんもその中で人権意識を教えられたといいます。先生は部落差別と冤罪をテーマとした自主製作映画の公演にも力を入れており、先生を慕っていた山本さんもその裏方として関わるうちに、興味が社会問題へと向いていきました。そして、自然と自分もそうした社会問題の役に立てるような職に就きたいと思い始めるようになります。

この思いは次第に大きくなり、山本さんは順当と思われた数学への道から転向、最終的には法曹界を目指して中央大学の法学部へ進むことにしました。

幼いころから山登りが趣味という山本さんの学生時代

コンピューターへ、そして学習塾との出会い

大学の法学部で法律を学び、弁護士を目指していましたが、世の中は学生運動が終焉を迎え、高度成長期の余韻から安定した経済への過渡期。様々な価値観の変容や世の中のニュースなどを目の当たりにするうち「法が人を救い、社会を変える」という当初の自分の考えが甘かったのではないかと感じ始めたと言います。

「弁護士になれば人を救えるなんて幻想かもしれない。こんな中途半端な思いのまま司法試験を受けるのか」と当初の決意が揺らぎ始めました。

確固たる目的を見失った大学2年の1年間は、Judas Priest、Stuff、Sarah Vaughanといった海外アーティストのコンサートツアーでローディーとして日本中を飛び回るなど、迷走していました。そんな大学生活の夏休みに帰郷した際、知人の喫茶店で国立大学の教授や高校の同窓生が集まり、コンピューターを使った何やら知的な遊びに興じているのを目にします。現在のように個人用の安価なパソコンなどまだ市販されていない時代だったこともあり、仲間が船便で取り寄せたAPPLE IIにゴミ置き場で拾ったカセットテープレコーダーとテープを磁気メモリにして繋げ、プログラムを打ち込んでゲームを動かすなどして遊ぶうち、コンピューターの面白さに目覚めていきました。

しかし依然として行く先が定まらないまま大学4年生となった山本さんは、留年することになり、その間も就職活動をするわけでも、司法試験の勉強に身を入れるわけでもなく、モラトリアム的に山登りと武術に明け暮れる日々を過ごしていました。そんな折に大学の知人から「司法浪人するなら…」と、ある学習塾をアルバイト先として紹介されます。特にやりたいこともなかった山本さんは、すすめられるままにその学習塾で働き始めます。

しかし勤め先となったその塾は、校内暴力の酷い地域にあり、すさんでしまった生徒や、行き場のなくなってしまった不登校の生徒など、問題を抱えた生徒が多く在籍していたと言います。手強い生徒たちと対峙するとなった山本さんは、クラスをまとめあげるための対策法を考えます。たどり着いた答えは「猿の集まりのような猿山では、自分がボス猿になるしかない」というものでした。

ただし、山本さんが目指したのは力でねじ伏せるボス猿ではなく、その猿山にいる猿たちを自分のファミリーとして徹底的に面倒を見るボス猿でした。「とにかく目の前にいる子供たちが、学業でもそれ以外でも下へ落ちてしまわないように、上へ押し上げてあげることに必死でした」と山本さんは当時を振り返ります。

人生の岐路となった学習塾での授業風景

なぜ山本さんがこの学習塾にそこまで夢中になれたのか、その答えは実にシンプルなものでした。色々な問題を持った子も多く在籍していたその学習塾ですが、そんな子どもたちと接するのがとにかく新鮮で面白かったのです。山本さんは「こんなことを言うと学園モノの青春ドラマみたいで恥ずかしいんですけど、あんなに嫌いだった教師がこんなに楽しいものなんだと気が付いたんです。」と付け加えながら、子どもたちとの思い出を嬉しそうに語ってくれました。

そこで、中途半端な状態になってしまっていた法曹界への道には区切りをつけ、やり甲斐を見出した学習塾での仕事に集中するため、武術の先生に勧められるまま上海の体育学院に短期の武術留学をします。

留学から帰国した山本さんは心機一転し、従来型の「勉強を教えるだけの学習塾」の枠から飛び出し、自分が我武者羅に取り組んできた登山や、武術、コンピューターを武器にして新しい「学びの場」を作ってみようと考えたと言います。山本さんは教室での授業に加えて、登山、スキー、サバイバルキャンプなどの野外教室や、家庭に居場所のない子供たちのためのクリスマス会など年中行事も頻繁に行いました。そうして子どもたちと交流を深め、信頼を得ていく中で時には、警察のお世話になった生徒を保護者として引き取りに行ったり、血の気の多い生徒同士の集団乱闘に割って入ることもあったそうです。

生徒たちのための遠隔学習システム
画期的な取り組みが話題に

教育することのやりがいに目覚めた山本さんでしたが、数年を経た頃に人生の岐路が訪れました。その学習塾の創設者が体調不良となり、学習塾の経営が存続の危機となったのです。子どもたちのこと、そして自身のキャリアのことを考えた山本さんは、塾の講師仲間と共に学習塾を引き継ぐことにしました。そして個人塾のままでは地元の人たちからの信頼を得られないとの思いから、1989年の10月20日に学習塾を法人化しました。これが現在の山本さんの起業の始まりでした。

子どもたちとの思い出がたくさんつまった学習塾での課外授業の様子

事業を引き継いだ山本さんでしたが、授業や課外活動などに経営という仕事が加わり日々休む暇が無いほど多忙を極めたと言います。そんな中でも「今までにないもっと新しい教育の仕組みを考えられないものか」と思案します。

思い当たったのはコンピューターを活用した教育です。自身で知識もあったコンピューターに、教育の現場で培った経験を加えたら、きっと効率的で素晴らしいシステムが構築できると考えたのです。子どもたちが自分の好きな時間に学習でき、学力を自動で判定、さらにはそのレベルやフェーズに沿って自動で最適な教材やプログラムを提供できるようなシステム、つまり現在で言うところのE-ラーニングシステムでした。

しかし当時はまだインターネットがやっと商業利用できるようになるかならないか、と言う時代。システムは自分たちでゼロから組み上げるしかありませんでした。しかし大学時代にもゼロからのシステム開発をした経験があった山本さんは、とにかく思い描く理想のシステムを追究し、仲間と試行錯誤を重ねました。

当時ほとんど存在しなかったWEBベースのシステムも手さぐりで独自に技術を編み出しながら作り上げ、遂に最初のプロトタイプが完成しました。このシステムはその技術そのものの目新しさから「インターネットシステムを活用した遠隔学習システム」として話題となり、各種新聞やTV/雑誌などの様々なメディアでニュースとなりました。実にWindows95が発売された1995年の事です。

学習用から業務用へ事業拡大
「今までにない」システム開発を

こうして開発した学習システムは多くの人の目に留まり、その開発力の高さから「こんなシステムは作れませんか?」と多くの企業から問い合わせを受けるようになりました。

また同じ頃、マッキンゼーのパートナーをしていた友人は「大学の研究室のような面白い会社だ」と山本さんの会社を気に入り、ベンチャー企業の実態を知ることを目的としたワークショップを開催するために、定期的にマッキンゼーの若手グループを連れて訪れるようになりました。

当時開発した通信塾のソフトウェアとカタログ

しかし、それまで企業向けの案件を手がけたことのなかった山本さんは、自身のビジネス経験不足についてこう話します。「大学を卒業してすぐ”先生”と呼ばれて、ビジネスや商談の『常識』がまるで無く、今考えると随分と無作法でお行儀の悪い社長だったと思います。またある時はシステムは完璧に作り上げたものの、リリースしたとたんにそのシステムを使用したサービスがあまりに話題となりアクセスが集中してサーバーダウンしてしまうという、ユーザー心理や行動を考え切れていなかったがために起こるトラブルもありました」

一方で、山本さんの会社にはずば抜けた能力を備えた選りすぐりの技術者たちを揃えていました。初めのうちは社会的な礼儀や常識などには少々疎いところがあっても、最高の才能を持っているメンツで開発したサービスを世に出して鍛えられたら、自ずと整っていくものだと信じていたのです。「世間の一般常識は無くても、とんでもない技術力をもった若い連中を見つけては声をかけて、とにかく一緒に面白いことをしよう!と誘って仲間にしてきました。ハッカーハンティングです。」その結果、他にはない高い技術力を持ったプロ集団として、大手企業の案件も受けるまでに成長しました。社員の中には10代からもう何十年の付き合いとなるメンバーもいると言います。

学習塾で多様な子どもたちと関わってきた山本さんだからこそ、そうした天才肌で破天荒な社員でもうまく導けるのかもしれません。事業は、現在では業務システムの開発から特許を持った独自のシステムをベースにしたクラウド、サブスクサービスも20年を超えて未だに継続し、創業から30年以上もの実績を築いています。

高い技術力で顧客からの信頼も得て、企業の業務システム開発や独自のサービスを世に出し続けている山本さんに、起業を目指す人へのアドバイスを最後に語っていただきました。

「ただ会社を作って社長になってみたい、起業にあこがれている、ある程度大きくしたらすぐにバイアウトして資産を持ちたいというような、形を追いかける方や換金するためにすぐに手放すことを前提とする方に起業はオススメしません。起業とは事業を興し育てていく過程の入口だからです。しかし、もし『やりたいことがあってそのために社会から認められる形が必要なんだ』という方がいたら、起業の海に飛び込んでみてください。何も気負うことはありません。必然さえあれば自然な流れとして起業せざるを得なくなります。そのような必然のある方にとっては初動の失敗など失敗の内に入りません。というより失敗して初めて分かる事ばかりです。戦国時代ではないので失敗しても命までは取られません。会社というのは生物です。少しくらいの失敗で、まだ延命できる、生きる目がある事業を放棄してしまうのでは、せっかく生まれた命を育てる苦労を忌避して安楽死させてしまうのと同じです。一度はじめたからにはきちんと生きていけるように愛情を注いで育てていってください」

いかがでしたか。今回ご紹介した山本さんが展開される事業に興味を持たれた方や相談がある方は、是非ホームページもチェックしてみて下さい。

エフ・イー・エス株式会社
https://www.fes-total.com/

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