傷だらけの起業戦士100人インタビュー第1回: 株式会社 E パワーコンサルティング 代表取締役 池島 靖佳(いけじま はるよし)さん

起業した人の人生には「失敗」がつきものです。そこには、傷だらけになりながら自分の力で駆け上がっていく戦士たちの物語があります。このインタビューシリーズは、そんな起業戦士達にお話を伺い、その数々の経験談から得た学びを、これから起業したいと考えている人たちに共有し、背中を押してあげられるような企画になれば、そんな想いを込めてスタートしました。

1人目の戦士:株式会社 E パワーコンサルティング 代表取締役 池島 靖佳 (いけじま はるよし)さん。
笑顔が優しい印象ですが、意外と会社員時代は部下にも厳しかったとか…

記念すべき1人目の起業戦士は、株式会社 E パワーコンサルティング 代表の池島 靖佳 (いけじま はるよし)さんです!池島さんの現在のお仕事は大手企業の課長研修など、マネジメント向け社内研修がメインで、10年後のビジョンをどう描くか?ビジョン実現の為の戦略、アクションプランは?それを実現するチームを躍動させるリーダーシップとは?について毎回20数名の皆さんと年間150日程度議論されています。7年前に独立され、3年前に株式会社として起業されました。今回は会社員として、そして企業のトップとして30年間、アメリカ10年、ドイツ5年の駐在経験も含め、様々なポジションでグローバルビジネスを実践してこられた池島さんに、数々の過去のご経験、失敗談やそれらを経ての学び、起業のきっかけや将来の展望についてお伺いしました。

宇宙に想いを馳せた少年時代
花火で自家製ロケットを作り続けた夏

池島さんの子供時代と言えば、「宇宙」への想いに取り憑かれていたそうです。

「アポロ計画」の総責任者であったヴェルナー・フォン・ブラウン博士との出会いが、池島少年の夢を開花させることになったのだとか。ヴェルナー・フォン・ブラウン博士は元はドイツの弾道ミサイル開発にも関わった後にアメリカへ渡り、「アメリカ宇宙開発の父」とも呼ばれた偉大な学者でありロケット開発の第一人者です。アポロ計画で人類が初めて月面着陸を果たしたのは1969年。その頃、多くの子供たちが宇宙への憧れを抱いたのではないでしょうか。しかしその頃の池島さんは、ただ憧れるだけではなく、明確に「NASAでロケットサイエンティストになるか、天文学者になる!」と強く心に決めていたのです。

そして夏になると、他の子供たちが花火を楽しんでいるのを尻目に、あろうことか花火を解体して火薬を取り出しては自家製のロケットを作り続けていました。何より、自分で作ったロケットが大空に飛んでいくところを見たい一心で、「悪いことをしている」という感覚は皆無だったのです。ご本人は「下手すると誤爆して腕が飛ばされていたかも」なんて笑っておられましたが、「これだ!」と思ったことに情熱を持って取り組む姿勢は、この頃から池島さんの芯の部分にすでにあったのかもしれません。(とは言え、良い子のみんなはマネしないでくださいね。) さて、そんな池島少年も成長し、奈良県の進学校へ進学。そこで水泳部のキャプテンを務め、竹刀でプールサイドを叩きながら指導する元オリンピック水泳候補の顧問から(選手は叩かれませんのでご心配なく(笑))、ビシバシしごかれるという超スパルタな練習を耐え抜いたそうです。友人達に恵まれ最高の高校生活を過ごした池島少年でしたが、その頃抱いていた宇宙への夢については懸命に勉学に励んだものの、なかなか届くことのできない絶対的な数学力の壁を感じたそうです。「夢は明確だったけど、能力が足りなかったね。京大理学部に行った友人との差は歴然でした(笑)」と話す池島さんですが、夢が明確だった分、当時はきっととても悔しかったのではないでしょうか。その後担任の先生の薦めもあって同志社大学工学部機械工学科へと進みます。

流れに身を任せた初めての就職、そして海外経験の始まり

池島さんの駐在していたアメリカ・ロサンゼルス。

大学卒業後、就職した会社は大手企業ではなく、バルブを製造する中小企業。当時、特にその会社へ行くつもりは無く、面接練習で受けた会社でしたが、面接の2日後に、なんと家にその会社の人事部長が押しかけて来て「池島君をぜひ我が社へ!」と両親に頭を下げたそうです。「そこまで言われたら行こうかな」というなんとも羨ましい決め方で初めての就職先をゲット。今ではあり得ないような、なんとも運に恵まれた就職です。

そこで任されたのは生産技術の仕事。機械工学の知識を生かして工場の生産を自動化する技術に携わりました。そして入社4年目、26歳の時に技術導入する海外企業のために開発部長と先輩と3人でソルトレイクにアメリカ初出張!池島さん曰く「大企業じゃなかったから若くして色々と任せてもらえた。給料は安かったですが(笑)」と。そして右も左も分からない新卒の池島さんと同僚に、大手自動車メーカーで品質管理の責任者をしていた技術士がメンターとして生産技術の基本を1から叩き込んでくれました。何度も何度も図面を描いては赤字まみれで戻されて書き直す、を延々繰り返すスパルタ教育(池島さんはスパルタに恵まれてますね…)。また、海外出張について、学生時代は10段階評価で2を取ることもあるほど、超苦手だったという英語に問題はなかったのでしょうか?という質問に対して、これまた奇異なことに、大阪の天王寺でうろうろしていた時に、某大手英会話教室になぜか吸い込まれたと言うのです。更にはそこで出会ったのが運命的だと思うほど、英語を学ぶ楽しさを教える事に優れた先生だったそうです。以来そこへ通い続けることになり、英会話の下地ができたとのこと。その時の素晴らしい出会いによって、英会話の面白さに目覚め、その後の海外での仕事にもつながっていきます。

月間450時間労働。深夜の運送地獄からの脱却を経て
日本屈指の厳しい会社もまるで「天国」に?!

池島さんは最初の会社を退社したタイミングで、親戚の会社が引き受けた新しい仕事を手伝うことになりました。乳製品の運送業だったそうです。しかしその職場が今ではあり得ないほどの重&長時間労働。深夜2時から夕方まで1日15時間、かつ1年半の間で休日は元日1日だけという鬼のような労働環境でした。また、発注元の親会社から現場の子会社に派遣されてくる幹部社員の中には何もせず昼間から酒を飲む人もいたり、商品に不良品があった時には罵声を浴びせられ近くのスーパーまで自腹で買いに行かされたりと、などなんとも凄まじい漫画のような職場です。親戚の事業であることもあり、辞めるに辞められず、1年半続けたある日、ついに体を壊して入院することになります。

入院を経て、このままではいけない!ということで生活を変えるべく、電気機器大手のキーエンスに営業職で入社します。キーエンスは当時の日本企業の中でも屈指のイノベイティブな会社で、社員にも大変厳しい(けれども報酬も高い)企業。にも拘らず、直近で地獄のような就労を経た当時の池島さんにとっては「まるで天国のお花畑」。「机に座ってお客様に電話するだけでいいの?」「あの牛乳40キロじゃなくてこの小さい鞄だけでいいの?」「お客様のところへ行ってお話しするだけでいいの?」と、まるでつらく感じなかったそうです。それどころか営業がゲームのように面白く、絶対1位になってやる!と誰よりもアポを取り、誰よりも案件を取り、あれよあれよとトップセールスマンになり、キーエンスアメリカへの海外駐在、西部11州を取り仕切る支店長の座を勝ち取りました。この時の学びは、楽しくゾーンに入って仕事をしていると驚く様な結果が付いてくる、と言う事でした。又、キーエンスで学んだ事、経験した事は、その後のビジネス人生を大きく飛躍させてくれた大きな財産になったそうです。

思うようにならない!海外でのマネジメント。
そして充実した数々の社内研修との出会い。

右から二番目が池島さん。氷点下のスウェーデンの山中での研修風景です。笑ってる場合ではなさそうですが楽しそうです。

海外駐在、そして外資系企業の日本支社長というグローバルな経験を持つ池島さんですが、その悩みの種はいつでもマネジメントだったといいます。個人ではトップセールスマンとしてバリバリ出来るのに、マネジメントになると人が思うように動いてくれない、伝わらない、業績が思うところまで上がらないことに頭を抱え、自己嫌悪すら感じる日々でした。日本人同士でさえ難しいコミュニケーションを、海外で外国人の部下や上司を相手にどうすれば動いてもらえるのか、伝わるのか、そのことを常に考えて多くの難問を抱えながら、毎日ギリギリのところで踏ん張っていたと当時を振り返ります。ただ、そんな困難な経験の一方で、池島さんがサラリーマン人生の後半に勤めた外資系企業は、豊富な社内研修で人材育成に大変力を入れ、同時に、ミッション、ビジョン、バリューの浸透、付加価値を創出する戦略的思考の展開を図っていました。この経験は後のご自身の事業の柱にもかなり活かされているということで、その時経験した研修内容もなかなかユニーク。

世界最大の飲料加工とそれを充填する紙容器でのトータルソリューションを提供する企業へ、営業部長として入社した際には「クラッシュコース」という、転職した社員対象の本社研修がありました。氷点下のスウェーデン山中での木材伐採から、製材、チップ化、製紙、印刷、紙パックへの充填、試飲まで、全ての工程を学ぶ研修でした。また、この研修にはビジネススクールの教授によるビジネス、マネジメント、リーダーシップセッションも含まれ、グローバルビジネスのいろはを10日間かけて教え込まれました。こうした研修が3か月に1度はあったと言います。

日本支社長として勤めたスイスの企業では、新任社長、本社の新任マネジメントが本社に集められ、「スイスチャレンジ」という研修を受けたそうです。これには座学だけでなく「本物のチャレンジ」が待ち受けており、その難関を実際にクリアしなければならないのだとか。最大のチャレンジはダムの壁をレインジャー部隊の如くロープ2本を使って50メートル降りるというもの。勿論、プロのインストラクターが指導してくれるものの、これは高所恐怖症でなくとも相当メンタルが鍛えられるチャレンジではないでしょうか。実際に体を動かし、頭だけでなく精神も体も鍛えるような研修は日本ではあまり聞いたことがありません。

左から二番目が池島さん。50メートルの壁下りを終えた新任社長とマネジメント仲間たちと乾杯。皆さんご無事で良かったです!

グローバルで戦っていける日本人を育てる支援をしよう!
30年のグローバルビジネスで痛感した危機感から
辿り着いた「輝く日本2050の実現」というビジョン。

グローバル企業で、ミッション、ビジョン、バリュー、ビジネスの基本、グローバルでの戦い方を実践的に学び、かつ実務に生かしてきた池島さんは、日本の企業における戦略的に付加価値を産み出すビジネスの取り組み、その為の人材育成が非常に遅れていると感じるようになります。折角の優秀な社員を20世紀から続く単純な、付加価値が小さいオペレーション作業で忙殺させ、彼ら、彼女らが持つ潜在的創造力が発揮出来ていない、と痛感したのです。そして、このままでは日本、日本企業、日本人が世界から取り残されてしまうという、強烈な危機感を持つようになります。そして、グローバルで生き残れる人材を日本で一人でも多く育てなければならないという思いが強くなったと言います。

そこで池島さんが打ち出したビジョンは「輝く日本2050の実現」。

「自分が2050年まで生きているかは分からないけど、自分の知識、経験を活かしたサポートで日本のビジネスパーソンがグローバルで活躍できる、プロフェッショナルなグローバルビジネスパーソンに変われば、その人たちがそのまた下の世代も変えてくれるでしょ?」とニコニコしながら話す池島さん。その海外で培った抜群のプレゼン能力とビジネスセンス、そして蓄積されたノウハウ、更には関西弁を駆使して、決して一方通行ではなく、双方向にコミュニケーションを取る研修スタイルは、時には厳しくも、必ず現場で活かせる内容になるよう心掛けているそうです。

最後に、これから起業する人にメッセージをお願いしたところ以下のような答えが返ってきました。

「まずは、起業するまでにクライアントを開拓しておかないと苦労します。ゼロからのスタートですからしばらくは収入がゼロになる覚悟は必要ですね。そして、クライアントとの出会いは、相手が直面している課題とこちらが提供できる内容との相性がすべて。多くの人と会い、じっくり話し合い、毎回のチャンスをトーナメント戦の試合(“サラリーマン人生の様なリーグ戦でなく、負けたらその相手とは終わり“という意味)として臨み、信頼を得て良いクライアント、パートナーを築くことが大切です。ただ、起業なんてしなくても大企業に勤めて大きな資源で大きいプロジェクトを動かせるという利点もあります。一人で出来ることは限られていますから。ですが、もし日本の古い体質が残っているような大きな企業にいて、上の人たちが保身ばかりを考えていて、世代交代まで待たなければやりたいことが出来ない、という場合で、実力と気概があれば起業した方が良いでしょうね。でもやりたいことをお金にするのはそう甘くない。起業したての頃だったらスターバックスで300円以上するコーヒーなんて飲みませんね。コンビニの100円コーヒーを飲みながら『今に見てろよ!』と。」(このインタビューはスターバックスで行われました。笑)

池島さんの人生には、厳しい環境も多くあったように思いましたが、インタビューを終えてご本人に伺ったところ「いや、振り返るとすべての辛かった経験が役に立っていますね。」と余裕の答えが返ってきました。ここまで言えるようになるにはやはり30年間の会社員時代を経た現在、地に足の着いた事業展開をされているからではないでしょうか。

起業をお考えの皆さんも厳しい状況に負けずに貪欲に学び、突き進みましょう!

今回、お話を伺った池島さんに、ご質問やお仕事のご相談がある方はikejima@epower2013.jp までご連絡下さいね。

起業時にマーケティングサポートが必要な方はお気軽にお問い合わせください

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