傷だらけの起業戦士100人インタビュー第7回: 雨宮国際特許事務所 代表弁理士 雨宮 康仁(あめみや やすひと)さん
起業した人の人生には「失敗」がつきものです。そこには、傷だらけになりながら自分の力で駆け上がっていく戦士たちの物語があります。このインタビューシリーズは、そんな起業戦士達にお話を伺い、その数々の経験談から得た学びを、これから起業したいと考えている人たちに共有し、背中を押してあげられるような企画になれば、そんな想いを込めてスタートしました。
7人目の起業戦士は、雨宮国際特許事務所 代表弁理士 雨宮 康仁(あめみや やすひと)さんです!雨宮さんは現在、海外も含めた特許や商標の取得を行う特許事務所で弁理士として、幅広く活躍されています。今回は雨宮さんに、学生時代や過去のご経験、失敗談やそれらを経ての学び、起業のきっかけや将来の展望についてお伺いしました。
有名私立中学へ入学→まさかの中学留年→高校退学
雨宮さんの出身中学は都内でも有名な、幼稚園から大学までを備えた某私立中学。この中学への受験に合格した時には、ご両親は大変喜んだといいます。ただ、ご両親の喜びをよそに、受験で燃え尽きてしまった雨宮さんは中学では、全く勉強をしなくなってしまったそうです。中学生が勉強を嫌がるのは何も珍しいことではありません。そんな勉強嫌いな雨宮さんですが、特に素行が悪かったわけでも無く、授業も真面目に毎日出ていたそうです。
にも関わらず、中学三年生の時に、ご本人もご両親も予想だにしなかった事態が訪れました。というのも、成績が悪く、卒業させてもらえないという事態に陥ってしまったのです。今ではあまりあり得ないことかもしれませんが、その中学には「規定の成績以上でない生徒は、もう一度3年生をやりなおさなければならない」という厳粛な規定があったそうです。義務教育の中学でのまさかの留年…。まだ1年の歳の差が大きく影響する思春期で、1つ下の後輩たちと同じクラスで過ごす1年間というのはどのような学生生活だったのか想像も付きませんが、とにかく中3を2回という貴重な(?)体験を経て、その後、系列の高校へなんとか進学します。
しかし、高校では当然ながら更に勉強の難易度が増していきます。それでも雨宮さんは特に自身を変えることなく、授業には出るけれども特に勉強はしない、という中学時代と同じスタイル。「苦手な英語は4点くらいだった。いや、もう1問も分からない。」と言う雨宮さんですが、その勉強に対する興味の無さ、放置ぶりはある意味突き抜けています。そして高校1年が終わろうとする3月に、なんと今度は学校側から遂に「退学」を突きつけられます。何度も言いますが、素行が悪いわけでも授業に出ていないわけでもないのに、「成績が悪い」という理由で「退学」になってしまったのです。
名門高校への編入、そして慶応義塾大学へ
「退学」はさすがにショックだった、と雨宮さんは当時を振り返ります。
「どうしよう、俺には居場所が無い…」と強い焦りと不安に襲われた雨宮少年。しかしとにかく高校へは行かなければという思いから、都立高校への編入試験を受けることを決意します。とは言え、「退学」が決定してから編入試験まではほとんど時間はありません。ここで普通であれば、自分の学力に合った高校を選びそうなものですが、妙なところで上級志向を発揮する雨宮さんは「どうせなら良い高校に行きたい」と、都立の中でも東大出身者などを多く輩出している名門高校を目指します。周りからは「絶対無理だからやめておけ。」と強く反対されたそうです。成績が悪くて中学留年、高校退学を喰らっている状況から考えて、周囲の反対も残念ながら頷けます。
しかし雨宮さんは周囲の反対にも負けず、わずかな試験勉強期間を経て、第一志望の高校を受験。滑り止めとして他に2校を受けていたそうですが、その滑り止め2校の結果はなんと不合格。そんな状況にもかかわらず、蓋を開けてみると驚くなかれ、「絶対に無理」と反対されていた第一志望だけに合格していたという驚異的な結果となったのです。勉強が出来ないのか、出来るのか、運が良いのか、はたまた集中量が高いのか、雨宮さんの底力は謎のヴェールに包まれています。ただ、恐るべき瞬発力と行動力を備えていることだけは読者の皆様も少し気づいていただけているかもしれません。
とにもかくにも第一志望の名門校に晴れて入学した雨宮さんはふたたび中学の時と同様、試験で燃え尽き、勉強をしない怠け者に逆戻り、高校時代は毎日ギターをかついでバンド活動に明け暮れていたといいます。その結果当然のことながら成績は再び芳しくないものになりました。それでも高校3年にもなると大学受験を迎えることになります。ここでもやはり雨宮さんは無謀なほどの上級思考。「どうせなら良い大学に行きたい」と、誰もが認める日本一の大学、東京大学を目指すことに。確かに東大合格者を輩出している高校ではありましたが、当時の雨宮さんの成績ではかなり難しかったはずです。1年目の受験は惨敗。それでも東大を諦めきれずに浪人をして二度目のチャレンジをし、東大こそ受からなかったものの、慶応義塾大学の理工学部に晴れて合格。一流大学への入学を勝ち取ったのです。
弁理士への道~12年間の激務、孤立、そして再就職
入試が終わり、大学に入るとこれまで通り(?)勉強はしなかったという雨宮さんですが、理工学部と言えばとにかく課題の多い学部。そのあまりの多さに対応しきれず大学は2回留年してしまいます。2度目の留年の年、就職活動を始める時期になると、雨宮さんは急に焦りを感じ始めます。というのも、理工学部へ進学したものの、企業へ入ってエンジニアになったりモノづくりをしたいといった想いが皆無だったからです。「自分の能力が理工系だっただけで、もう全然エンジニアとか興味が無くて」という雨宮さんは色々と自分の将来の職業を考えた時に「弁理士」が一番いいと思えたそうです。というのも、雨宮さんのお父様ももともとは弁理士でしたし、技術特許などを扱う弁理士は8割以上が理工学部出身者という実情があったためです。そこから合格率6~8%の超難関と言われる弁理士資格の猛勉強をし、見事2回の受験で無事に資格を取得しました。(合格者は平均4回~の受験回数だそうです。)
資格習得後は弁理士事務所で実務経験を積みながら仕事を覚えていったといいます。弁理士が一人前になるのは実に5年はかかるそうです。なぜなら特許を出願してから認可が下りる(または不認可となる)までにはそのぐらいの年月がかかるため、その5年を通じて初めて一通りのプロセスを学ぶことができるのだとか。そして弁理士の業務内容についてもかなりハードなもの。事務所に所属していたころは毎日終電、土日対応も当たり前で、家族との時間もなかなか取れなかったそうです。
それまでは「弁理士ってこういう仕事なのだろう」と特に不思議にも思わず働いていましたが、12年間勤め上げた時にふと、「このままで人生が終わるのはどどうなんだろう」と思い始め、独立を考えました。そこで、同じ事務所で共に頑張ってきた信頼できる仲間に「一緒に独立して事務所をやらないか?」と声をかけたのです。その同僚も「よし、やろう!」と乗り気になり、2人で独立の準備を進めました。
しかし、準備を始めてしばらく経ったある時、その同僚は「やっぱり独立は出来ない」と言い始め、結局、2人で独立事務所を経ちあげることは出来なくなってしまいます。明確な理由は分かりませんでした。家庭の事情なのか、心境の変化なのか、状況が変わったのか、とにかく雨宮さんは事務所を辞めたものの、共に事務所を立ち上げるパートナーが去ってしまったのです。けれども走り始めた計画を止めるわけにはいきません。このまま一人でも独立しよう!と意気込んだ雨宮さんでしたが、奥様の猛烈な反対に会います。当時の雨宮家は奥様と2人の娘がいる4人家族。クライアントの当てがあるかも分からず、パートナーも事務所を立ち上げる直前でいなくなり、奥様が不安になるのも無理はありません。雨宮さんは奥様の気持ちを尊重し、独立を諦めて再度、別の事務所で働くことにします。
最悪の就労環境を経て…やっぱり独立しかない!
人生2度目の弁理士事務所での仕事は、困難を極めました。給与こそ変わらなかったものの、就労環境は以前にも増してひどく、おまけに人間関係も芳しくなかったのです。特に部下として下についた上司は、その人の下についた部下は必ず辞めるといういわくつきの人でした。理不尽なことで怒鳴り散らされる毎日の中で、「絶対いつかやめてやる!」と思いながらの勤務はもちろん長くは続かず、半年で退所を決意します。「今度こそ独立したい」という夫のその思いに対して今度ばかりは奥様も反対しなかったそうです。最初の事務所から別の事務所へスムーズに移れたこともあってか、もし独立に失敗しても再就職する手もある、という考えに至ったからかもしれない、と雨宮さんは推測します。
そんなこんなで晴れて独立を果たした雨宮さんは現在すでに6年目を迎えています。現在は特許や商標、意匠登録に関わる書類などの整備、特許庁や海外の弁理士とのやり取りなど多岐にわたる複雑な業務をこなされています。特に、雨宮さんの場合、学生時代に英語が苦手だったにもかかわらず、国際弁理士ということは英語を業務で使用することも多々あるのでは?と伺ったところ、「もちろん英語の読み書きは業務上必須ですが、英語だけをとりたてて勉強する必要は無くて、やりながらでも覚えていけますよ。」とのこと。とは言え、専門用語なども難解なのに本当かしら、と若干疑わしくもありましたが、その辺りは「Google翻訳もバリバリ使います!」と笑顔で素直に教えていただきなんだか少し安心しました。
また、独立したての頃はクライアント獲得のための営業は大変だったのでは?という問いに対しては、「東京商工会議所へはかなり足しげく通いました。そこでネットワークを広げて仕事につながったケースも結構ありますね。」と答えてくれました。しかし、独立当初、一番最初にお仕事を依頼してくれたのは、何を隠そう父親の弁理士時代からお付き合いのあった方。その方は印刷業を営まれていて、最初の事務所にいた頃にもお仕事を下さっていた方だそうですが、前の事務所の手前、独立したからと言って堂々と営業をかけに行くわけにはいかなかったのだとか。そこでなんとか糸口を掴めたらと、独立後に「独立したので名刺を作ってくれませんか」と会いに行ったそうです。そうするとかつての父親の良好な関係も手伝って、すぐに「うちの依頼を受けてくれ」とお仕事を依頼してくれたのです。そして更にはその後いくつもクライアント先を紹介してくれて、顧客の幅が広がったといいます。
そんな顧客にも恵まれて、現在は顧客も安定し、自分の時間も以前より各段に取れるようになった雨宮さんですが今後の展望について伺ったところ、意外な答えが返って来ました。
「う~ん、ま、やれるところまでやります。」
と、キッパリ。「やれるまでやる」。これに勝る展望は無いのではないでしょうか。私たちはとかく何かしらスケールを大きく拡大していったり、高い目標を掲げたりすることが尊いと、とこかで妄信しているところが少なからずあります。しかし、「続ける」ことがいかに難しいことかということを時として見落としがちです。自分のペースで長く続けられるようにすることは実は一番難しいことかもしれません。そしてそれを望むことはごく自然なことなのです。
そして最後に、今後独立したいと考えている方々へのアドバイスもお願いしました。
「やりたいようにやる。だってそれをやれるのが独立する一番のメリットなんだから。」
と、これまたキッパリ。たまらず生真面目な私は「それは、その、つまり、『やりたいようにやる』ことで発生する『責任』を自分で取ることも含めってことですよね?」と聞いてみたのですが、「責任?責任なんて考えてちゃダメですよ。」と笑顔でたしなめられてしまいました(笑)。さすが、行動あるのみ、ここぞという時に瞬発力を発揮しながら、長年の経験を積まれてきた雨宮さんだからこそ出来るアドバイスを頂きました。
皆さんも雨宮さんに聞いてみたいことや特許、商標などのご相談があればお気軽にご連絡してみて下さいね。
雨宮国際弁理士事務所
http://www.amemiyapat.com/
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