傷だらけの起業戦士100人インタビュー第8回:株式会社WAGOON 代表取締役 伊橋成哉(いはし なるや)さん

起業した人の人生には「失敗」がつきものです。そこには、傷だらけになりながら自分の力で駆け上がっていく戦士たちの物語があります。このインタビューシリーズは、そんな起業戦士達にお話を伺い、その数々の経験談から得た学びを、これから起業したいと考えている人たちに共有し、背中を押してあげられるような企画になれば、そんな想いを込めてスタートしました。  

現在は東京から大阪へ移住してビジネスを展開する株式会社WAGOON 代表取締役  伊橋成哉(いはし なるや)さん。

8人目の起業戦士インタビューは、台湾で日本ブランドのアパレル余剰在庫をセット販売する事業を展開される株式会社WAGOON 代表取締役  伊橋成哉(いはし なるや)さんです。伊橋さんはもともと音楽家としてアイドルやメジャーシンガーに楽曲提供をされていたキャリアから大幅なシフトチェンジを経て、現在では大阪へ移住し、台湾市場向けのアパレル販売事業を、実店舗とWEBサービスを展開されています。音楽畑から何故台湾でのアパレル事業に舵を切ったのか、その経緯や現在の事業について伺ってみました。

納得できないことは一切やらない
芯の強さが原動力となった少年時代

伊橋さんの少年期は野球少年からスタートします。その頃、全国クラスの強豪リトルリーグでエースを任されていたそうです。平日は学校以外の時間を、土日も朝から晩まで野球漬けの日々で、小学生ながら8キロの走り込みなどハードな練習を続けていました。しかし、そんな生活を1年生から続け、5年生になった時、「野球以外のことを全くしていない」ということに疑問を感じ始めます。疑問に感じると居ても立っても居られない伊橋さんは、5年間続けた野球チームでのエースという肩書も捨て、転校を期に、あっさりと野球は辞めてしまいました。

中学に入ると新しく興味の沸いたバレーボール部に入り主将を任され、更には学級長を務めながらバンド活動も始めたそうです。しかし中学では人間的に魅力的な人ばかりだった、不良グループとの付き合いも始まります。そんな中、中学三年年の夏、一年次担任をしてくれた先生が「地頭は良い子だと思う。可能性が拡がる高校への進学を検討してみては?」と将来を案じて家庭訪問をして、母親を説得したそうです。そこで1度だけ学習塾のトライアル講習を受けに行くことに。その授業がきっかけで、分からなかったところも、霧が晴れるように理解できるようになり「これは楽しいぞ!」とみるみるうちに成績は上がっていったのです。

伊橋さんが通っていた頃の日本大学芸術学部校門前

進学校からなぜか芸術大学の演劇学科へ?!
経験ゼロからの演劇、そして作曲家への道

中三夏の猛勉強の甲斐もあり、高校は地域でトップの進学校へ入学。いたって普通の高校生活を送っていたつもりでしたが、高校3年になり、進路を決めるための3者面談。母親が「この子は変わっているので、普通の大学ではなく日本大学芸術学部へ進学させます。」と伝えたそうです。しかも受験するのは演劇学科。当時の倍率は20倍という狭き門の学科へ、演劇の経験など一度もない伊橋さんを行かせるというのです。しかし当時の伊橋さんは特に疑問に思うこともなく、日芸の演劇学科を受験、なんと結果は合格。無事に入学することに成功したのです。

しかし、もともと俳優になりたかった訳でもない伊橋さんは、学校では音楽など他の学科の授業ばかり聴講、音楽科のピアノブースに籠ってはバンドの歌練習をする毎日でした。曲作りは大学2年から始め、周囲の評価も高かったといいます。そこで自信をつけた伊橋さんはバンドでプロになるべく、就職活動はせず、卒業後はバンド活動をスタートさせました。

が、もちろん世の中そんなに甘いものではなく、上手くいかないまま数年が経過し、バンドも解散を迎えます。「音楽は諦めるしかないのか…」と思い悩んでいた伊橋さんですが、かつてバンドのデモ音源を送っていたエイベックスから「作曲家をやってみないか」というオファーを貰いました。音楽を諦めたくなかった伊橋さんは二つ返事で快諾、こうして作曲家としてのキャリアがスタートします。

5年で1曲…全く採用されない日々からの脱却。
「釣り」に救われた人生の転機から作曲家キャリアの終焉

作曲家としてのキャリアをスタートされた頃の伊橋さん

作曲家とは言っても、活動スタート後に採用されたのは5年間で1曲のみ。彼女と小さなアパート暮らし、アルバイト生活から抜け出せないまま30歳、流石にこのままではマズイと不安を感じるようになりました。

そんな中、当時流行っていたミクシィで、m-floのトラックメーカーを発見します。m-floの音楽性が好きだった伊橋さんは、ファンレターのつもりでその人にメッセージを送ります。すると、なんと返事が返ってきたのです。というのも伊橋さんのミクシィの内容は趣味の「釣り」に関することが多く、その返事は「釣りを始めたいと思っていたので教えてほしい」というものだったのです。そこから二人は同い年という事もあり、意気投合したのち釣り友達になってしまったのです。

交流をする中、書き貯めている曲を聴いて貰えるようにもなります。すると彼は周囲に次々と推薦してくれるようになり、伊橋さんの曲は知り合って1年間で、12曲もリリースされました。「本当に恩人ですね…」と伊橋さんも当時を振り返ります。それをきっかけに作曲家として安定した収入を得られるようになりました。

しかし、このまま作曲家としてのキャリアが続くかに思われた伊橋さん、15年目に大きな転機が訪れます。まずは、自身に双子が生まれたこと。共働きで稼いでいた妻は仕事から育児に専念し、世帯収入は減り、子育てのための資金が必要になりました。更に、時を同じくして父親が脳梗塞で倒れます。この事によって、父親が経営していた会社の借金を伊橋さんが一部肩代わりすることに。また当然のことながら治療費や入院費なども必要でした。 

そしてもう一つのきっかけは、当時初めて担当した映画音楽の成功でした。若者に絶大な人気を誇る広瀬すずさん主演の映画「チアダン」 挿入歌を多数担当した伊橋さんの楽曲は、ランキングでも上位に入り、東宝に問合せも多く寄せられました。しかし、同時にこの作品で作曲家としてのキャリアに一つの達成感と区切りを感じたともいいます。

@自分が1年間で作曲できる曲数
@採用率
@平均印税額
@印税収入のマネタイズは再現性が低い事
@印税を等分にし、多数の作家が共作をするトレンド
@音楽を聴く若い世代の減少傾向

これら要素を鑑みて「POPSを軸に作曲するなら、この市場に人生は賭けれない」
とあっさり引退を決意します。

作曲家から台湾市場へ、アパレル販売事業を開始
直感を「信じる」ことの大切さ

台北の中心街にあるWAGOON台湾支店(台北市中山區中山北路二段26巷12號1樓)

作曲家を辞めた伊橋さんは、当初アジア圏でのエンタテインメント事業や台湾楽器メーカーの日本代理店などをスタートさせました。しかしある時、伊橋さんは現地の日系アパレル商品が高いことや独特な商習慣にも気づいたそうです。そんな折、テレビ東京「ガイアの夜明け」で放送されたアパレル余剰在庫問題。「日本のアパレル余剰在庫は台湾で売れるのでは?」と思いついたそうです。そこですぐに番組内に出ていた社長に直接連絡、なんと電話後に事業アイデアのプレゼンに出向いてしまうのです。その後さまざまな知人から投資家も紹介してもらい、資金調達に成功、無事起業を果たしたという訳です。

しかし、投資家から資金調達が出来ても、事業が最初から上手くいった訳ではありません。文化や考え方の違う現地スタッフのマネジメント問題に加え、実店舗を構えたものの、客足は全く伸びませんでした。良いものを魅力的な価格で提供している筈なのに…何が悪いのか全く分からず泣きながら店舗の掃除をしていた時すらあったそうです。そこで、まず伊橋さんは台湾に数カ月滞在、店舗の改善やスタッフを徹底指導。「中長期タスクを苦手とするスタッフには、とにかく短期タスクに因数分解、今やるべき事だけシンプルに示すことが大事」と学びました。

実店舗については、周囲の人気店を分析し、各要素をコピーする所から始めたそうです。「作曲と同じで、まず人気あるものを真似てみる事が近道です」と元作曲家らしい一言。そんな伊橋さんの将来の目標は2024年に株式上場をすること。現在4回目の資金調達へ向け準備中だそうです。「Mステで自分の曲が流れるようにまでなれたので、上場も大変だろうけどいける気がしています。」と、どこまでもポジティブな伊橋さんですが、最後にこんなことを教えてくれました。

「ロジックも大切ですが、漠然と“信じる”ことも大切です。いくら精巧な計算をしても最終判断は直感です。失敗した人を熱心に研究するより、実際に失敗して痛みの程度をまず知る方が良い。ちょっとくらいケガしたって死ぬ程のケガなんて日本に生きていたらそうそうないですから。」

確かに自分を信じられなければ音楽もビジネスも続けるのはとても難しいかもしれません。みなさんも伊橋さんのビジネスに興味があれば是非ご覧になってくださいね。

株式会社WAGOON
https://www.wagoon.jp/

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